イラストレーター / アートディレクター橋本孝久
福井県生まれ。外資系広告代理店でアートディレクター / クリエイティブディレクターとして広告制作をする中、2007年より本格的にイラストレーション作品の発表を開始。2013年より独立し「Takahisa Hashimoto illustrations」を主宰。インドのミティラー画(細密画)と現代的なイラストレーションの手法を融合させた個性的なスタイルが好評。その強力な個性のイラストレーションによるパッケージデザインからコミュニケーション戦略まで、トータルなクリエイティブワークは高い評価を得ている。主な受賞歴に『Society of Illustrators(NY)金賞』『Art Directors Club(New York ADC)金賞、銅賞』『200 Best Illustrators Worldwide Archive』選出など。
- 使用タブレット
- Cintiq 13HD
- 使用歴
- 約10年
インド古来から続く「ミティラー画(細密画)」と現代的なイラストレーションの手法を融合させた個性的な作風で『Society of Illustrators』金賞受賞、『Art Directors Club』金賞受賞など、世界的に重要なイラスト賞、デザイン賞で高い評価を得ている橋本孝久さんは、グローバルなクリエイティブの世界でオリジナルな表現を作ることにこだわってきたイラストレーター / アートディレクター。その独特の感性と視点から生まれる作品群は、世界中のクリエイティブシーンに驚きを与えています。偶然出会ったミティラー画が決定づけた「イラストレーター」というライフワーク。その発想の源を知る、様々なエピソードを語ってもらいました。
テキスト:阿部美香
撮影:CINRA編集部
アートに無縁だった大学生に訪れた2つのターニングポイント
国内外でイラストレーターとして活躍する橋本さんですが、そのルーツは意外や意外、美術大学でもデザイン学校でもない、経営学部の経営学科でした。
橋本:高校時代からアートを含めてカルチャー全般にさほど興味もない学生でした。野球部だったり、生徒会長をやったりと積極性はあるほうでしたが、今のような仕事をするなんてまったく考えてなかった(笑)。ただ、漠然と自分で何か起業してみたいという思いはあったので、そこで選んだのが経営学部でした。専攻していたゼミは、国際経営論。企業が日本から世界に打って出るための戦略や、方法論を考えることに興味を感じていました。
クリエイター取材で「もの作りのきっかけ」は定番の質問。そこから今のクリエイティブにつながる話が出てくるものですが、橋本さんの場合はちょっと違います。ただ、現在に至るまでには、いくつかのターニングポイントがありました。その1つ目の転機といえるのが、大学在学中に経験した仲間との交流です。
橋本:僕が大学生だった1990年代前半、ちょうど日本の音楽シーンはクラブカルチャー全盛期でした。仲間たちとDJ活動を始め、イベントを開くようになったのですが、そのとき僕がフライヤー担当だったんです。そこでMacをいじるようになり、グラフィックデザインの真似事を始めたのがきっかけで、その面白さに目覚めました。
そして、同じ時期にもう1つ、今の創作活動にも繋がるターニングポイントがありました。
橋本:一方で、ファッションにも興味があり、スタイリストのアシスタントのアルバイトをやっていたんです。テレビ局などに出入りして、某有名お笑い芸人さんたちが番組で着る服をかき集めてました。そうするうちに「自分で服をデザインしてみたい」と思い始め、専門学校に通っている友人から教科書を借りて、独学でワンピースなど女性服を作り始めたんです。大学卒業後も、服を作り販売していましたが、それだけでは食べていけませんでした。ただちょうどその頃、グラフィックデザインの事務所に誘われて、幸運にもファッションとグラフィック、両方のデザインが続けられる環境になったんです。
美大出身ではないというコンプレックスがプラスに働いた、
アートディレクターの仕事
大学時代のターニングポイントを経て、自分でデザインすることの楽しさに目覚めていった橋本さん。そして、グラフィックデザインの仕事を続けながら、ファッションデザイナーとしての道を模索をしていた彼が、次に興味を持ったのは、なんと外資系の広告代理店でした。
橋本:ファッションやグラフィックデザインの仕事に携わっているうちに、次第に広告に目が行くようになりました。僕がファッションデザインに見ていたものは、美しさをピックアップして世界観を作る「広告」の世界に近かった。そこで外資系広告代理店のOgilvy & Matherに入社することにしたんです。
ニューヨークに本社を構えるOgilvy & Mather社は、多国籍大企業の広告を手がける大手広告代理店。世界中から美大やデザイン学校出身者が集まる広告クリエイティブの世界で、常に独学でデザインを学んできた橋本さんは、メキメキと頭角を現していくことになります。
橋本:美大出身ではなかったことで、偏ったプライドもなく、色んなことに躊躇なくトライしてきたことがプラスに働いたんだと思います。同業種で活躍している人も同僚も、ほとんどが有名美大を出た人ばかり。だからこそ「負けられない!」と、アートディレクションや広告に関するスキルや知識を積み上げる日々が始まりました。美大出身者へのコンプレックスは今でもありますが、昔はそれが仕事をする上でのエネルギーにもなっていた。負けず嫌いだし……しつこいんです(笑)。
キャリアを積み、クリエイターとしてのスキルを磨いた広告代理店が外資系だったというのも、橋本さんのクリエイティブ力を大いに高めるきっかけになりました。
橋本:目にするクリエイティブワークが、世界基準のアートやデザインと直結していたのです。日本だけではなくグローバルに物事を見る視点や考え方が、自然と身に付きました。特に、企画の作り方が、日本の広告やデザインに対する考え方とは根本的に違いました。伝えたいことが非常にロジカルでクリア。一見ストレートな表現でありながら、じつは捻りやウィットが効いていることでテーマがスッと伝わるし、目を惹く新しさも作れる。当時の日本の広告業界からは学べない、面白い発想とアプローチでした。
グローバルな広告の世界で生き残るために決断した、
「ミティラー画」を自分で描くという挑戦
そして、そんなグローバルな広告クリエイティブの世界で揉まれ続けたことが、今の橋本さんの個性的な作風「ミティラー画」へと繋がっていくことになります。世界の広告業界では、広告賞で評価を得ることが代理店のブランド力に直結しています。スポーツの世界ランキングのように、社員がどれだけ賞を獲得したかがポイント換算され、会社自体のクリエイティブの評価にも繋がっていくのです。橋本さんにも海外の広告賞への挑戦、そして受賞を目指すことが会社から推奨されました。
橋本:当時、ヨガスタジオの広告を制作する機会があり、海外の有名な広告賞を見据えて、色んなアイデアを考え抜いていた最中、たまたま「たばこと塩の博物館」(現在は移転のため休館中)に立ち寄ったんです。そしたら偶然、インドからやってきたミティラー画作家のおばあちゃんが展覧会とワークショップをやっていて。地べたに座って黙々と描いている姿も不思議でしたし、絵にも温かさがあふれていて、とても感銘を受けたんです。素朴であるがゆえの強さを感じて、衝撃を受けました。そこで初めてミティラー画と出会ったのですが、そもそもはインド北東部のミティラー地方で古くから女性に受け継がれてきた伝統的な民族壁画。土やすりつぶした花、墨などを使い、ヒンドゥー教や自然を題材とした緻密なモチーフで構成されています。そして、僕が作ろうとしていた広告はヨガがテーマ。これは合うかもしれないと思い、ミティラー画で描くポスターを作ってみようと思いついたんです。
そこで、橋本さんが取った方法も意外なものでした。なんとその「ミティラー画」を自分自身の手で描いてしまおうと、インド人おばあちゃん作家のワークショップに通い始めたのです。アートディレクターとしてのキャリアを築き上げていましたが、美大出身ではない橋本さんはイラストを描いたことがありません。つまり、イラストレーターとしてのキャリアはここからスタートしたのです。
橋本:それまで挑戦した世界の広告賞での評価はいまいち。今回のポスターにはかなりのオリジナリティーが必要だと思いました。そのため、イラストレーターの手を借りず、あえて自分で描いてしまおうと決めたんです。それに、アートディレクターとしてそれまで数限りないイラストレーターを見てきましたが、ミティラー画とイラストを融合した作家は、世界のどこにもいなかった。もちろんリスクはありましたが、うまくハマれば強力な武器になることは間違いないと思いました。
世界中のクリエイターが腕を競う場では、高度なテクニックやセンスだけの作品は埋もれてしまいます。そこで必要になるのが卓越したオリジナリティー。橋本さんは、ヨガのポーズをミティラー画の手法で描いた3連作を発表。その第2作として、代表作でもある『LEAF MAN』を描きあげ、イラストレーション業界の世界的な権威であるニューヨークの『Society of Illustrators』で金賞を受賞しました。まったく新しい画風で個性を発揮した橋本さんのイラストは、非常に狭き門でもある全米中心のイラストレーター年鑑『American Illustration』にも掲載されるという大快挙も成し遂げます。
『LEAF MAN』
橋本:ミティラー画にこれだけ魅せられたのは、僕が自然に囲まれた田舎育ちだったことも影響しているのかな、と今振り返ってみて思います。細かいモチーフを全て手描きで積み上げていく手法なので、1つの作品を仕上げるまでに1か月くらいかかって大変なのですが、オリジナルの線はあくまでも人間くささの残る手描きにこだわっています。さらにデジタルでの着色や背景の合成などを加えて、自分だけのオリジナルのミティラー画に仕上げていくんです。これは僕にしかできないスタイルだという自負もありますし、結果的に美術の専門教育を受けていなかったからこそ、独自の世界を描けているのではないかと思っています。
現在は個人事務所を構えて独立し、イラストレーター / アートディレクターとして、国内外で個性的な作品を次々に発表している橋本さん。イラストやデザインの依頼に対して、コミュニケーションプランやブランディングなど、様々なアイデアも提案していくというスタイルも、外資系広告代理店出身の橋本さんならではと言えるかもしれません。
橋本:イラストレーションは、誰も見たことのない世界を作り出せるところが最大の魅力です。特に僕のスタイルは、小さなモチーフを積み重ねて集積させ、より大きな世界を描いていく。絵を描くというよりも……宇宙を描いている感覚に近いですね。
インド大使館での展覧会も予定され、日本におけるミティラー画のアピールにも貢献している橋本さん。今後はイラストレーション業界の中心地であるニューヨークにも拠点を置いてみたいとか。ちなみにこれからミティラー画に触れてみたいという方には、ガンガー・デーヴィーという作家の作品がおすすめとのことでした。よりグローバルに活動の場を広げる橋本さんのさらなる活躍に期待します。
橋本孝久さんのヒミツ道具をご紹介!
細かい作業に没入するために必要なヒミツ道具たち
橋本さんが創作に打ち込むヒミツ基地は、自宅アトリエと都心オフィスの2箇所。今回の取材はオフィスで行わせていただきました。真っ白な壁に囲まれ、細長いテーブルの上にMacと液晶ペンタブレットがシンプルに並ぶアトリエには、橋本さんの好きなルーツレゲエが流れ、ちょっぴりリゾート気分も高まる空間で、創作に欠かせないヒミツ道具を紹介いただきました。
ヒミツ道具1 カラーボールペン
橋本さんのイラスト制作で欠かせないのが、カラーボールペンです。ボールペンを使う理由は、にじまずにしっかりと細い線が描けるから。緻密なモチーフを描くミティラー画だからこそのチョイスです。
橋本:いろんなメーカーを試してみた結果、線の細さが選べるパイロットの「ハイテックC」を使うことが多かったのですが、最近はインクの耐久性を考慮して、三菱の「ユニボール シグノ」や、ゼブラの「SARASA」も併用しています。どのペンもそうなんですが、一番の難点は描き込む量が多いため、ペン先がすぐに潰れてしまうこと。その点、これらのカラーボールペンは一般の文具店でもすぐ購入できるので便利です。
ヒミツ道具2 MOLESKINEのノート
MOLESKINE社製のB6サイズノートは、中を開くと鉛筆で描かれたイラストのラフやメモ書きなどがびっしり並んでいます。いつも持ち歩き、浮かんだアイデアをメモしておくアイデア帳です。
橋本:MOLESKINEのノートは表紙がハードで型くずれしないことが気に入って使っています。イラストのアイデアを描いていくとき、僕は「ボックスメソッド」という手法を使うことが多いのですが、これは広告代理店で教わった発想法の1つ。ノートのページを均等な四角形に区切って、アイデアを次々描き込んでいくやり方です。アイデアを出し続けることで、より精査され、良いアイデアや強いプランに発展していきます。そのボックスを切って並べたりすることで、マインドマップのような役割も果たすんですよ。
ヒミツ道具3 グレイシー柔術の道着
次に橋本さんが紹介してくれたのは、なんと道着でした。イラストレーター、アートディレクターと聞くとインドア派のイメージですが、もともと身体を動かすことが好きで、学生時代は野球部にも所属していた橋本さん。約10年ほど、グレイシー柔術の道場に通っているそうです。
橋本:グレイシー柔術を始めたのは、カメラマンの弟の師匠である写真家・ホンマタカシさんに誘われたのがキッカケで、週4日で道場に通っていた時期もあります。好きな技は腕ひしぎ逆十字。技を決められると相当辛いですが、決めたときの快感は格別です(笑)。格闘技なので、練習中は他のことを考える余裕がまったくないくらい、身体的にも精神的にもハードなんですが、綺麗ごとを言えば、自分を身体的に追い込むことで、仕事などを忘れてリフレッシュできるのがいいんです。その他にも、トレイルランやトレーニングジムにも定期的に通っていますね。
ヒミツ道具4 液晶ペンタブレット「Cintiq 13HD」
グラフィックデザイナー、アートディレクター時代からの必需品として、今も使い続けているツールがペンタブレットです。使用歴は約10年ほどで、これまでは板型ペンタブレットの「Intuos」シリーズを歴代使用してきましたが、より直感的な描き心地で、イラストレーターの必需品と言われる液晶ペンタブレットを知り、使ってみたくなったそうです。
橋本:液晶ペンタブレットの良さは、画面に直接描けることだけでなく、これまで使ってきていたMacのディスプレイと併用できることですね。手元の「Cintiq 13HD」で素材を切り取って、大きなモニターの下絵に貼り付けていったり、「Cintiq 13HD」をメインモニターにして、Macのディスプレイでは作品全体のプレビューを映したり、2台の液晶ディスプレイとしてデュアルモニターでフル活用できるのはとても便利です。
細かなモチーフを丹念に描き込むことで世界を作り上げる橋本さんの作品には、作業への没入感の高まる液晶ペンタブレットはベストマッチかも知れません。そして、グレイシー柔術の道着には、根を詰める作業の多い橋本さんの体力作りへのこだわりも感じられました。心身共に鍛え抜くからこそ、創作活動へのモチベーションもさらに高めることができるのではないでしょうか。
細密に描いた線画とデジタルな背景のハイブリッド
ミティラー画制作のヒミツに迫る
いよいよここからは、橋本さんのミティラー画制作の作業工程をご紹介します。作品の大きさは、新聞紙大程度のものから、大きなポスターサイズのものまで多彩ですが、ベースとなる用紙には、線のにじみが少なくクリアに描けるよう、イラストボードを使用しているとのことでした。
作業工程1 下描き
ヒミツ道具のコーナーにも登場したアイデアノートのラフ画をもとに下描きを作成していきます。それぞれのモチーフの輪郭だけをシャープペンシルを使って描いていきます。
橋本:僕の作品でもっとも大切なのがこの下描きです。題材をどう配置していくのかを熟考して、作品の外枠にモチーフを並べる際は特に気を使いますね。絵をバランス良く仕上げるには、一つひとつのモチーフの大きさや間隔がとても重要になってくるので、電卓を用意して計算しながら描いていきます。丸いモチーフを並べるときは線が乱れやすいので、円定規を使うこともあります。ちなみにミティラー画を描くおばあちゃんたちは、電卓も円定規も使いません(笑)。
作業工程2 ペン入れ
シャープペンシルで下描きをした線画の上を、こちらもヒミツ道具のコーナーに登場したカラーボールペンでなぞり、さらにモチーフ内部の細かい線を加えていきます。最も使用頻度が高いペンは赤と黒。自然の素材を使ったミティラー画本来のビビッドな色を再現しつつ、全体を見たときに埋もれない色ということで、オレンジ、ピンク、紫、ブルー、グリーン、イエローグリーンなどを多く使用します。ペン入れが完成すると、下描きの鉛筆線を消しゴムで消していきます。
橋本:ペン入れをするときは、イラスト中心部のモチーフから外へ向かって描いていく場合と、外側から内側に向かっていく場合があります。どちらになるかは作品次第。とにかく細かい描き込みが必要なので、一気に完成させられませんが、身体が許せば丸1日描きっぱなしということもたまには。無我の境地に入り込めますね(笑)。
作業工程3 スキャン&合成
橋本さんの作品の特徴は、線だけを手描きで描き込んだら、後はすべてデジタルで行っているところです。布や板などをスキャンした背景など、線画に写真素材を合成する仕上げ方はアートディレクターらしいセンスにあふれ、独特の世界観を紡ぎ出しています。
橋本:線画に背景を加えることで、ちょっとした意外性や雰囲気が生まれます。背景の素材は、絵の内容に合わせて毎回用意しています。板に少しムラをつけてアクリル絵具を塗ったものをスキャンしたり、布をスキャンしたり、撮影したり、背景の作り方も様々ですね。大きな作品だと、背景素材も実物大にしたいので分割してスキャンするなど……けっこう手間はかかってます(笑)。背景に古めかしさや汚れを付けたい場合も、Macでデジタル加工します。また、液晶ペンタブレットを使って線画の細かい部分を調整するなどの作業もこのときに。抜けちゃっている線がやっぱりあったりするんですよね。
作業工程4 着色
背景合成の後は、Macでの着色作業に移ります。使用するソフトは「Adobe Photoshop」など。ペン入れの際、どの色を選ぶかは感覚的だという橋本さんですが、着色の際も液晶ペンタブレットを使ったデュアルモニタで、全体のバランス、線画の色合いのバランスなどを見ながら感覚的に行っているそうです。
橋本:着色で最も気をつけているのは、線の色が死なないことですね。線画そのものも非常に繊細なので、あまり濃い色やダークな色調は使えない。これも作品によってテイストが変わりますが、最近はよく線画に使う黒が映える紫系、ピンク系の色を気に入って使っています。
橋本さんの作品は、アナログの手描き線をとても大切にしながらも、デジタルのテクニックを随所に加えていくことによる素材感や手触り感も大きな魅力。作業工程を追うことで、橋本さんの創作活動で大切にしているものもよく見えてきます。伝統を現代に融合させ、絵を描くだけでなくそこから広がるクリエイティブを包括的に表現する橋本さんの世界。新しいイラストレーターの在り方が、世界で評価されているのもうなずけます。